藤本涼|ryo fujimoto[landfall]
landfall

2007-08, type C print

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新たな陸地を見つけ出すことに余念がない。
新たな陸地は、遥か彼方のカナダみたいなところにある彼方で作られつづける。
私はそれをストックする。
世界の中で確認していない部分を消すために歩く旅行者のような気分になる。
旅行者は、広過ぎる空隙の奥に、それを探し出すようになる。新たな陸地があらわになり始める。

この作品には「カナタ」という仮タイトルが付けられていた。まず、北アメリカ大陸にあるカナダと、「彼方」の発音が似ていたこと(そしてカナダは、自分の住んでいる場所からはおおよそ「彼方」にあるということ)、カナダの国名の由来の一説として、この場所にやって来たスペイン人の探検家が、「(雪ばかりで)なにもない(=アカ・ナタ)」と言ったのがなまってカナタ→カナダとなったという説があること(つまり彼方には何もないということ)が、興味深かった。
このことから、制作する上では旅行者(というよりは何らかの目的地へ向かう人、探索する人)が気になっていた。実際に写っている彼らは観光地にいた人間なので、おおよそは旅行者のはずである。しかしながら、彼らは旅行者でありながら(そして旅行者を「未知の場所へ行く者」と仮に定義するならば)、着いた(着陸、上陸した)場所は、事前に写真や映像などであらかじめ知っている場所であるかも知れない。つまり、タイトルの「landfall」に沿うならば、航海/飛行後に確認した陸地は「初認」ではないかも知れない。
何度死んで生き返っても、自分の眼で世界の全てを確認(初認)することは不可能だろう。逆に言い換えれば、見ていないものが無くならずに済む。都市ではあらゆる場所で建物は作られ、壁で遮られることで、新しい空間が表出し、眼球で確認できていない光景は無限に増え続ける。そのことに抗うかのように、《landfall》の中の点景としての人物は、何もない彼方へ視線やカメラを向ける。
主に私が観光地で撮影した写真から抜き取られた彼らは、ぼやけた起伏のある地面に立ち、本来あったはずの、残像さえ残らない、観光地が消されたあとの白い空白を見つめる。しかし「観光地」と言う名に落とし込まれることによって形骸化しそうな場所を訪れることに批判的なわけではない。観光地とはわかっていても訪れ、自分の眼球やカメラで” 再確認” せざるを得ない衝動に駆られてしまう。
私にとっての旅行とは、世界のまだ見ていない部分を消すための途方もない作業であるが、しかし同時に観光地を「初認」ではなく、「確認」するための作業にもなっている。「行ったことはないが、見たことがあり、知っている場所」が、人々の記憶の中に現れたのは、写真/映像が大衆化されてからだろうか。カメラがあることにより、世界中の様々な場所に人類の総体としての眼球が存在することになり、このことによって人々の脳内の風景のストックは爆発的に増殖する。あらゆるフィルムや印刷物、更にはモニターに立ち表れた風景と、眼前のものとして見た実際の風景は、人々の記憶の中でキメラ的に混淆され、今この瞬間も膨大な勢いで個々の脳内で増殖していく。


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